(1)
気がつくと、俺はモノクロームの世界に佇んでいた。上も、下も、右も左も何もない世界。アケロンの河に似ている。だが、風景らしい線もなければ現世との境界の川岸も見えない。
歩く。地を踏んでいるのか、そもそも足で感触を確かめているのかも分からない。ひたすら進む。
どれくらいの時間がたったのだろう。何も感じない。
やがて、針の穴程の点が見える。それはだんだんと大きくなり、放射状に広がったかと思うと全てを占領して暗転する。
最初に現れたのは水鏡の間。生まれたばかりの赤子を、人間ではないものが高々と天に掲げている。周囲には、夥しい数の人間の亡骸。全て赤く染まっている。
砂嵐が吹く。
次に現れたのは災厄の居城。
人間の子どもが、魔物にまぎれている。生かすでもなく、殺すでもなく。ただ道具として使えるようにするのみ。
ああ、あれは俺だ。
また、砂嵐。
今度は村だ。魔物達は縦横無尽に立ち回り、兇器を突き刺す。散る飛沫。一段高い家屋の屋根で腕組みをして眺める。一通り動く者が見当たらなくなると、一息に焼き払った。
何も得られない、空虚。
絵は、広大な地下闘技場へ変わる。
鬼神の面を被ったロトの勇者。悪しき者への制裁を加えるべく、襲い掛かる。
最強の名を欲する魔人崩れ。やがては鬼神を葬り去る。そして知る、その真の姿。父親。
吸われた命を魔人だった者に注いで、天に還る母親。
弾かれる血脈。
──忘れたいか。
走馬灯は、水の入った桶の栓が抜かれるように、一点を目指して収束して行く。
記憶のかけらは、もう一人の俺になって消えた。
「忘れてしまいたいか、アラン。」
もう一人の俺、ジャガン。
「俺の事など、忘れてしまいたいのだろう、アラン。」
「……。」
「この通り、俺はおまえの業だ。俺にまかせて、逃げてしまえば楽になる。」
「……業から逃げる、か。」
さっき見た、記憶の端末は悲しい出来事ばかりだ。呪いの記憶。
「だが……手を下したのは……俺だ。」
「悔恨があるのは、心が闇を拒絶しているからだろう。闇に任せてしまえばいい。」
ジャガンは手を差し出す。ずるずると引き寄せられるような感覚。
「暗い記憶に塗りつぶしてしまえば、後悔することもない。」
過去は無限の孤独。縋るものを求められない。それは、どんな残虐な仕打ちよりも応えた。押し殺すための反動。染み付いている。今になって、ようやく振り返る。
「……誰よりも、分かっていた事じゃないか。」
「……。」
「誰よりも、分かっていた。ジャガン、お前の孤独を。」
「孤独で覆ってしまえばいい。」
「……違う。お前がいなければ、闇は払われない。」
そう、違う。
何もない空間が、過ぎ去りし日の絵に変わる。差し出された手の引力が消えた。
共に戦う仲間、危機のときにこそ呈す志、何気ない人のいる日常……それらが目まぐるしく旋回する。
「過去は辛い。逃げ出したいと思っていた。」
泣きたくても泣けなかった。
バックスクリーンに、過日の勇者、聖戦士たちのシルエットが浮かんでは消える。
嬉しい、楽しいという感情。いまいち掴めなかった。ジャガンとの対峙で、ようやくその理由が、見える気がする。
「光の世界は、暗い記憶で裏打ちされてこそ、気付くもの。闇がなければ、何も感じない。光の中の光は、見えない。お前がいないなら、何も感じずに過ぎ去って行くものだったんだ。」
ジャガンは、視線を流して思案してから、重い口を開いた。
「……共存する、というのか?」
「……人並みに、満たされる権利はある。俺も、お前も。」
「……。」
最後に、アステアのシルエットが蜃気楼のように消えて行く。
「……俺は、全てが俺でいいと思っている。」
寸刻の静寂。風景はまた、モノクロームに戻っていた。
「全ては俺、か。まさかそういう手段に出るとは思わなかったぜ……。」
ジャガンは、ふっと微笑する。
「俺は、お前が虚無感に才悩んで、仕舞いには俺に身を託すと思っていたんだがな。」
「虚無感など……曖昧だ。」
「ふん……よく言う。お前には……帰る場所が出来たんだろう。相当な誤算だったぜ。居場所があったんだからな。」
「……!」
「俺が、いや、俺達が求めていたものかもしれん。多少不本意だが、便乗させてもらうか。」
「……厭な奴だ。」
「くく……何とでも言うがいい。俺はお前なんだぜ?……俺の孤独の穴が今後埋められなければ、すぐさまにでも乗っ取ってやる。いいな。」
そう言うと、場面はひときわ激しい風砂で乱れた。俺の意識と、ジャガンの意識が切り揉みされ、粉々になっていく。全てが砂塵になり、混ざりあった。
いつしかモノローグの世界はブラックアウトしていく。