【短編】香辛料
ガラスのデカンタになみなみと注がれていたはずの水があっというまに底をついた。
店員がタイミングよく、空いたデカンタと汲み直された新鮮な水の入ったデカンタを取り替える。
記憶が正しければ、このルーチンは2回目だ。
「うう……失敗した……。」
「無理して食べる事ないだろう。」
「食べ物を粗末にしちゃだめだよ……がんばるよ……。うう。」
向の席で、アステアは半泣きで匙を口に運ぶ。
匙の上には真っ赤な色を放つ香辛料がたっぷり入った「アッサラーム名物・郷土料理」が申し訳無さそうに鎮座している。
店の売り文句曰く、滋養たっぷり庶民の味。群を抜いた突き抜ける味覚、だそうだ。
「たしかに『突き抜けてる』よ……。なんでアランは平気で平らげちゃうかな……うう、辛い……。」
一口食べるごとに身悶えし、もはや流れ作業のようにグラスの水を流し込む。皿の上の料理は遅々として減らなかった。
食べ始め当初は口直し用のグラスだけだったが、アステアがスポンジのような早さで消費してしまい、店員が気を利かせたのか今ではテーブルの上に大容量のデカンタが突っ立っている、というわけだ。
「なんでまたこんな店選んだんだよ。」
口腔が刺激の上限をまた超えたらしく、小休止に入らざるを得なくなったのを見計らって突っ込みを入れてみた。
すっかり冷めてしまった料理とは対照的に、アステアは舌に広がった熱に悩まされた。なんとか辛さから逃げるべく掌で軽く口の中を仰いで、やっとのことでまともにしゃべれるようになったのだった。
「だってこの店が一番人目につきにくそうな雰囲気だったから……。あんまりお客もいなさそうだったし。」
「それは、料理店としてはあまり好条件とはいえないんじゃないのか。」
「いやその……味に関してはぐうの音も出ないよ。」
恨めしそうに、今だ真っ赤に主張し続ける自分の皿の位置を少しずらした。
「お城を抜け出してるのをばれないようにする方が優先だったから……どこからリークされるか分からないし。」
「木を隠すなら森に隠せ、か。街がごちゃごちゃしてて店が空いてるのがよかった、というわけだな。」
「うん、まあ、そういうこと。」
そこまで言って、冷水で再び鎮火した。なかなかしつこいらしい。
「それにしても、急に外食なんてどうしたんだ。」
執務の隙をついて、外に連れ出されたのは本当に突然のことだった。
とはいっても、仕事が落ち着いてきたタイミングを狙っていたのだろう。アステアのことだ。確信犯であることは想像に難くない。
詰めは甘かったようだが。
硬質な音を立ててグラスがテーブルに置かれる。
「最近ちょっと痩せたんじゃないかなあ、って。」
「アステアが?」
「私じゃなくて。アラン、君の事。」
「俺? ……そうか?」
「元からそんなに線は太くないけど……、お城の食事、あんまり慣れてないんじゃないかなって。」
「選り好みはしてないが。」
「残してるでしょ?」
世間一般に、食事に愉しみを覚えるのが人だという。
その点、生い立ち上「食事=そこにあるものを喰らうこと」でしかなかった俺にとって、ラダトームの食事はいささか上品すぎたのも事実だった。
素材をもろに活かした、といえば聞こえはいいが、粗雑な味になれ親しんでしまった味覚が「複雑にからみ合った味」に慣れるまでには時間を要する。ことさらに、城の料理はこの上なく複雑さを配されている。味の絡まりの段階が多ければ多い程、人はそれを高級とあがめ立てた。
最近は少し慣れてきたとはいえ、全ての皿が綺麗になるにはまだ遠い。
「まあ、お城の食事はちょっと手が込んでるからね……。アランが慣れるのに時間がかかるのは仕方がないとは思うんだけど。」
アステアなりに思惑を察して計画したのが、この突発の外食らしい。
「街の食事ならいけるかなって思ったんだ。うん、アランがちゃんと食べてくれてよかったよ。」
「気を使わせたな。」
「そんなことないよ。たまの遠出も楽しいしね。……結果的に私は玉砕しちゃったけど。」
最後の方は尻窄(すぼ)みになりながら苦笑した。
「で、それ食べきれるのか。」
一向に量が減らない赤い料理を指差す。俺には、脇に置かれた匙が「仕事は終わりました」と主張しているように見えた。
「うーん、本当は残したくないんだけど……無理かも。」
「そうか。」
賢明な判断だろう。その答えを聞いて、手持ち無沙汰にしていた目の前のテリトリーにアステアが降参した皿を手繰り寄せた。
やる気なさげに広がっていた料理は、元々の挑戦者の数倍の早さでその姿を消した。
目の前でその光景を繰り広げられたアステアは、信じられない、という風に目をしばたかせている。
「こんな形でアランの意外な一面を見られるなんてね……。」
「全然辛くないだろ。」
「ええー……?」
勘定を済ませて店を出る間際、アステアが「今度はちゃんと下調べしよう」と呟いているのが聞こえた。