親の教科書

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  親の教科書  

通された客室には緑豊かな城下を見渡せるテラスが併設してあり、二人は日の光に祝福されたその暖かなガーデンスペースでゆったりと向き合った。
再建されたカーメン王国へ復座したローザ王妃は、かの失われた年月を思わせぬ仕種と包容力で客人を迎える。
久方ぶりに訪れた客人、アステアは、その貫禄に少し遠慮を感じつつも安堵を感じずにはいられなかった。

「あれからもうずいぶん経ったのね……すっかり大人びて。いらっしゃい。ようこそ、カーメンへ。」
「なかなかお目もじ適わず久しくしておりました、ローザ王妃。」
「そんな堅苦しくなることないのよ、アステアさん……今はアステア王妃、とお呼びした方がよろしいわね。」
「いえ、ローザ王妃のお心の向くままに。突然のお伺い、失礼を。」

相変わらず生真面目さんなのね、とローザ王妃は微笑んだ。
指し示された先のガーデンチェアは既に柔らかなクッションで整えられており、そこにもまた、ローザ王妃の完璧なまでの心遣いが見える。
アステアはそれを視認すると、感謝の言葉とともに少しばかりの憂いを滑り込ませた。
用意された談話の席に腰を下ろさせてもらい、もてなしの用意がされる。使用人達が下がったタイミングで話を切り出す。
たったそれだけのことだったが、アステアはわずかに気後れしてしまっていた。

「こうしてゆっくりお話できる時間が持てるようになるなんて、とても幸せなことだわ。」

お互いに気まずい雰囲気になるか否かの絶妙な間で、ローザ王妃が切り出した。

「何か相談事があるのでしょう? アステアさん。そんなに緊張しなくても、食べちゃったりしないわ。」
「あ、はい。」

ローザ王妃が差し出した茶目っけのお陰で、ガチガチに張り詰めていたアステアはようやく肩から力を抜いた。

「あの大戦が終わってから、私とカーメン王は影ながらラダトームのことを心配していたのよ。王位を継いだ貴方たちはアルスと同い年なのだし……まったく杞憂に終わってしまったけれど。」
「経過を直接報告するべきでした。申し訳ありません。」
「あら、謝る事なんて何もないわ。再建の多忙さは身を持って知っていますもの。むしろあらゆる政治手腕の成果に日々驚かされていたぐらいよ。愛すべき放蕩息子のアルスにも見習わせたいぐらいだわ。」

そういってまた王妃は微笑み、丁度飲みやすい温度になった茶を一口含む。アルスの名を言葉に乗せる事に、王妃の穏やかな幸せがにじみ出ているようだった。
談笑しながらも、普通ならばほぼ気付かれないであろう引っ掛かりをローザ王妃は経験則で察知していた。
繊細な音を立てて、ゆっくりと陶器皿にカップが置かれる。

「目下の心配事は、アステアさんが抱えている大きな幸せのことかしら。」

心配事、を指摘されて、アステアはなだらかに膨らんだ自身の腹部に手を添えた。
一拍の呼吸をおいて、アステアは切り出しを試みる。

「その、相談する相手をいろいろ考えてみたのですが……アルスの御母堂であらせられるローザ王妃以上の相談相手が思い付かなかったのです。」
「ヤオさんは?」
「彼女もすごく頼りになりますけれど、乳飲み子を抱えて大変な時期ですから。」
「あら、遠慮することもあるのね。」
「ええ、まあ。……正直、気恥ずかしい、というのもあります。」

あら、と一瞬驚いた表情を覗かせて、ローザ王妃はまたゆるやかに微笑んだ。
阿吽の呼吸、という言葉がもっとも似つかわしかったであろう、かの戦友同士は、戦が終わったその後もよき友人として交流を深めている。
市井の民のように普通の子ども時代を過ごす事ができなかったという奇異な境遇が引き合ったということもあろうが、おおよそ長いとはいえない時間の中で運命と共に一瞬にして結びついた固い絆は未だ輝きを失ってはいない。
そんな絆であっても、こうした「遠慮」が生まれでてくることに、一世代上で見守るローザ王妃は彼女等の子どもから大人への変遷を感じずにはいられないのだった。

「暦があと数度巡れば、私も産を迎える事になります。ヤオからいろいろとアドバイスを貰っていますし、回りもよくしてくれるのでそれは心配ではないのですが……。」
「肝が座っているのはさすが、というべきね。」
「いえ、その。周囲の暖かい尽力のお陰ですから。不安なのは、その後、なのです。」

親とはどういうものなのかが、分からない。と、アステアは続けた。
アステアの父母は早くに病で鬼籍に入り、そして夫であるアランの父母も、物心つくころには離別、その後十分に人生を交錯させることなく、アケロンの向こう岸に渡ってしまった。
いるはずだった身近な教鞭は、世界の理の渦中に飲み込まれてしまっているのである。

「大袈裟かもしれませんが……私、家族を本当に大切にしたいんです。やっと辿り着いたから……。」

かつて途方もない力とつばぜり合いをしていた勇者と同一か、という疑問がなぜていくような、不安げな表情を露にする。

「私達のような思いは、させたくないんです。」
「その気持ちは、分かるわ。私達とアルスも長らく離れていましたし……でも、少しばかり気負い過ぎかもしれないわ。」
「えっ。」
「アステアさんが無理に変わる必要はない、と思うの。」

王妃は一旦茶で口を潤すと、続ける。

「どんな形であれ、子どもは愛情にとても敏感に反応するわ。そこに教科書なんてありはしないし、決まった形もないの。」
「でも……。」
「そうね。額面な答えを期待するのだとしたら、私がアルスを身ごもったのはカーメンに嫁いだばかりで右も左も分からない、アステアさんよりも若い時分だったけど、アルスは元気に生まれてくれたし、その後アルスを育ててくれたルナフレアだって、教科書を頼りにしていたわけじゃないわ。当時齢20にもなっていなかったのじゃないかしら。」
「ルナフレアさんはとても素晴らしい方であった、と聞いています。アルスにとってかけがえのない人だった、と。私には完璧な女性に思えます。」
「でも、そのルナフレアだって、きっとたくさん失敗もしたと思うわ。案外お茶目なところもあったのよ。しっかりした人だったけれど、その分、今のアステアさんのように気負いすぎたことだってあったかもしれないわね。」
「勇者育成の責務、重圧ですか……。」
「でも、あの子は失敗も含めた「愛情」をちゃんと受け止めていたと思うの。今のアルスが、その答え。」

友人であり、戦友であり、親友であるアルスがどういう人物であるのか。
十まで悟されずとも納得するに値する答えだった。

「親心としては子の試練は取り去ってあげたかった、と思うのだけれど、近くでそれを乗り越える力をつける「手助け」をしてあげられるのが特権、と言えるのかもしれないわ。」

すっかり大きくなってしまって、その機会もなかなかないのだけれど、と王妃は苦笑する。

「できるだけ、傍にいてあげたい、と思います。」
「それでいいわ。」

堂々回りであった不安にやさしくピリオドを投げ打たれ、短い答えに全ての答えを混ぜ込める。
いつしかアステアの表情から、こわばりが消えていた。

「ところで、こういう相談はアランさんにはしているのかしら。」
「あ、いえ……何かと忙しい人ですから……。」
「思いきって相談してみるといいわ。」
「今のような話を、ですか。」
「ええ。案外、相談を待っていらっしゃるかもしれなくてよ。……尤も親身になる人物じゃないかしら。」
「それはそうかもしれませんが……。」
「アステアさんが唯一直した方がいいところは、あえていうならここね。」
「……?」
「甘えたい時には素直に甘えるとよろしいわ。」

アステアは外耳に血が流れていく音を聞いたような気がした。
一国の重鎮の御前で取り乱すなどと……! すぐさまそんな思いが脳裏を掠め、無理矢理平静を保つように心の波を押さえ付ける。

「た、大変参考になりました。」
「それはよかったわ。」
「あんまり時間を取らせるのも気が退けますし、そろそろお暇いたします。」
「あら。では城の者に帰りの支度をさせましょう。身重では何かと大変でしょうし。」
「いえ、お気遣いなく。ルーラ一飛びで帰れますから。」

アステアの事跡を待って、二人はゆっくりと席を立ち上がった。

「……こういう時、アステアさんは勇者だったのだわ、と思い出すわね。」
「え?」
「いいえ、独り言よ。」

手近な吹き抜けまで付き添うと、アステアは深々と謝辞を述べて、使い慣れた呪文をこともなげに発した。

「親心としては、いろいろと複雑ね。」

アステアが去ったあと、ローザ王妃は軽く苦笑して肩を竦めた。
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