12. 血
アーチ型の質素な戸口の淵影に、女達が身を寄せるようにへばりついている。なにやらひそひそと小声で囁きあっては、本来の彼女らの居場所であるところの扉の内側、台所を伺う。実際のところ全然隠れてなどいないのだが、彼女ら使用人としての立場が辛うじてそうさせているのだろう。
目下注目の的に晒されつつ使用人達の戦場である調理場を占拠していたのは、雇用主であり、彼女らが住まう国の君主の伴侶であるところのアステアだった。このような下働きの世界に易々と足を向けるような身分の者ではない。
「ちょ、ちょっと! なんでアステア様がこんなところにいるのよ!」
「し、知らないわよう。あたしが出勤した時にはもうここはこんな感じだったんだから!」
事情を知らないキッチン・メイド達は口々に似たようなことを発し、異常事態に慌てふためいた。
そんな外のごたごたなど気にならないのか、アステアは何やらレシピらしき本と、台所には似つかわしくない厚い辞書と首っ引きで没頭している。中と外の温度差は徐々に開くばかりだ。
メイド達の推理ごっこもいよいよどん詰まりに差し掛かった時、彼女らの上司、メイド長が騒ぎを聞き付けてやってきた。
「お前達、そんなところで何をやっているの。騒がしいこと。」
「あっすいません。」
「何ごとかと思えば。ああ、アステア様が台所をお使いになってらっしゃるから、だね。」
「知ってらっしゃったんですか?」
「アステア様は、私達が使う前までに終わらせる、とおっしゃっていたからね。下手に告知したりしたらこんな風に騒ぎになるのが分かってたからあえて言わなかったのだけど。……時間が押してしまわれたのでは意味がないわ。」
メイド長は仕方がない、というようなため息を漏らしたが、この状況を憂いたわけではなかった。むしろ、時間を忘れて奮闘する女主人を見守る姿勢に見えた。
「でも、どうしてアステア様が台所なんかに?」
メイドの一人がもっともな質問を投げかけた。
「分かった! やっぱりアラン様のためだわ!」
推答したのはメイド長ではなく、長考をくぐり抜けた同僚の一人であった。
「アステア様だって一人の女性ですもの。きっと料理を振る舞って喜んでいただきたいと思ったに違いないわ!」
「そうよそうよ。きっとそうよ。」
「アステア様、いじらしい!」
台所前の廊下は、いよいよ雀のやどり木のようになってくる。メイド長が制しても、多勢に無勢。こと、女というものはこういった色恋沙汰にはとことん目がないということ事も災いしているのだろう。
「……いたっ。」
台所で包丁を扱っていた我らが主役、アステアの声。下働きのメイド達は盛り上がっていてちっとも気付いていなかったが、メイド長だけはその変化を機敏に感知した。
見遣れば、アステアの指から赤い雫が滴り落ちている。慣れない調理用の刃物──短剣は刃に指を添え当てたりしない──で切ってしまったのだ。
メイド長はすぐさま中に立ち入り手短に謁見の礼をすると、アステアにかいがいしく手当ての進言をする。立ち入る前に、部下達への「出来る仕事に戻りなさい」という忠告も忘れずに。
アステアとメイド長がやりとりするちょっとの間に、さえずりが過熱した雀達がすぐに飛び立つわけがなかった。
「ああっ、アステア様がお怪我を。大丈夫かしら。」
「メイド長さんがちゃんと手当てするわよ。」
「……うふふ。きっとその後アステア様の指をアラン様が見て、包帯はずして……」
『キャー!』
雀の大合唱は最高潮である。若干大きめのひそひそ声で。中ではメイド長とアステアが怪我の具合を確かめている。
「ホイミ!」
メイド長の介抱を「大丈夫だから」と気持ちだけ受け取ったアステアは、周囲の期待空しく一発で傷を治してみせた。
『ああー……。』
そうして、狭い入口の人垣は不謹慎な落胆によってその背丈を数尺縮こませたのだった。
その声によって今頃外の様子が大変なことになっていることに気付いたアステアはそれを心底不思議そうに見つめ、メイド長は頭を抱えてアステアに詫びることとなったのである。
ラダトーム恋愛潭は、こうして──おおよそギャラリー主力にて──毎日ページを重ねていく。