16. 雨
雨はあまり好きじゃない。泥が跳ねるだとか、髪が跳ねるだとか、そういった年頃の悩みのようなものではなく、私にとっては様々な記憶が止め処なくあふれるトリガーになりかねないからだ。
例えば眼下に構える要所要所の見張り台。どっしりと構えるその頂に、隠忍にも似た白装束がはためいている気がしたりするのだ。もちろん過去の自分が同じ場所にいるわけがないので、それは記憶の残像だと分かっているのだけれど。
でも、今の私のため息は「いつもの」事例とは事情が異なっている。
吐き出される少し高めの温度の吐息はたびたび格子窓のガラスを曇らせた。ガラスに映りこんだ自分は儚く消え、そしてまた元に戻る。
「外、出たいなあ……。」
窓の外を眺めてはいても焦点はどこを見るでもなく、空ろに一人ごちる。
「おとなしくしてろ。」
窓に背を向ける形でソファに身を預けて本の文字をなぞっていたアランがたしなめる。この会話パターンもここ数日の定石になりつつある。
「……もう何日も空見てないし……。」
「もう少し落ち着いたら出歩いてもいい、と医者も言っていただろう。」
「皆大げさすぎるんじゃないかな……。」
そう。ここ最近はいわゆる軟禁状態、というやつなのだ。別に悪いことをして罰を受けているわけではないのだけれど、その始まりが少しばかり都合が悪かった。……この件については少し心がちくりとするので、思い出になったら話せるようになると思う。
窓を叩く雨粒は相変わらず衰えることを知らない。
「第一、この天気じゃそもそも普通に外出は無理だろう。」
「だって……こう、何日も部屋に詰めっぱなしじゃ体力はよくても気分が晴れないよ。晴れでも雨でも出られないんだから。」
「皆お前を慮っているんだ。」
それは十二分に分かってる。アランなんかは特にそうしているに違いないのだ。
単位が「国」の仕事の彼にとって、時間の都合というものがどれだけ大変なものであるのかぐらい、自分だって一時期同じ席に身を置いていたのだから分かりすぎるぐらい分かる。本当は忙しいはずなのに時間を工面しては、気がつくと私の傍で静かに見守っていたり、時には助力の手を差し伸べたりしてくれているのだ。
それは本当に、本当にうれしいことではあるのだけれど、「特別な事情」になってからの私はどうも我侭になるスイッチが入りやすくなっているらしい。自分でも制御できないあらゆるところで、徐々に変化が現れているのかもしれない。
「仕方がないだろう、今は。」
「……。分かってる、けど。」
数えるのも面倒になるぐらいのため息をまた吐き出した。それを見かねてか、アランは本を閉じて文机に置くと空と一緒に表情の冴えない窓の映りこみに入る。
「まあ、確かにあんまり精神的な具合はよくなさそうだな。」
「うん……。」
「……分かった。ちょっと一緒についてこい。」
アランはおもむろに私の手を引いて、ゆっくりとした足取りで部屋の外へと連れ出した。あまり振動が出ないようにエスコートをするのも、事情がもたらしたひとつの変化だ。アランは一度もそういうちょっとした変化を口に出したりしないけれど、その少しの心遣いが私に安堵をもたらしているのは間違いない。
少し前までよく出向いていた中庭にたどり着いた。
城内の中核に位置するこの場所は「プライベートガーデン」と言われるもので、私達以外は立ち入れない区画。吹き抜けになっているため、緑の芝生は案の定、雨露にさらされている。
アランは「そこで少し待っていろ」と告げると、雨脚の強い中庭の中ほどまで歩いていった。慈悲の知らない空からの侵入者は、容赦なく中庭の来訪者を打った。乾いていた黒髪はあっという間にしなだれ、普段着の黒色も水を吸って見る間に濃黒へと変わっていく。顎へ滴る水滴を気にすることもなく、アランは庭の中央で立ち止まった。
「アラン、風邪を……!」
一歩つま先が雨だれを超えようとしたとき、またもや制止が入る。
「いいからそこで待っていろ。すぐ終わる。お前が濡れるのは厳禁だ。」
「……う、うん。」
踏み出しかけたつま先をひっこめて、何が起こるのかを静かに待つ。
アランが何事かを呟く。詠唱だろうか。
それが終わると、なんとも不思議な現象が起こった。
四角く切り取られた中庭の空。アランの立っている丁度真上から白く淡く透けるドーム上の屋根が出現したのだ。最初お皿ぐらいの大きさだったそれは、見る見るうちに中庭全体を覆っていく。そしてついには私が立っている回廊まで到達した。ドーム──正確には大きな球体の上部三分の一のような蓋状──が展開し終わると、今まで芝生を打っていたはずの雨粒はすっかり身を潜めてしまっている。
そして気がついた。私は、この魔法を知っている。
「これって、もしかして……。」
「ファンタムゾーンの成れの果て、というやつか。」
前髪から水滴の余韻を滴らせて、アランが短く微笑する。
「これなら外に出てもかまわん。」
一仕事終えたアランは来た道を辿って回廊の方へ戻ってくると、ぬかるんでいない石畳を選んで私を誘導した。誘導されるがままに連れ出された中庭は、雨のおかげで緑が青々しく匂い立っている。深呼吸とともに伸びをすると、部屋の中では得られないすがすがしさが満ちていくのが分かった。さっきまであった鬱々とした気分が晴れていく。
「すごく、気分がいい。ありがとう、アラン。」
「俺も勝手が分からないからな……。かといって、閉じ込めておくのも考え物だ。」
「ううん、私がちょっと機嫌が悪くなりやすかったのがいけないんだもの。」
「そうはいってもな……。数日様子を見たが、あれではふさぎこむ一方だ。……あまり良くないと思うものは出来る限り排除したい。」
「うん、その気持ちだけで十分だから。ね。」
アランは一本気なところがあるので、放っておいたら人がびっくりするようなことを提言しかねない。ぶつぶつとああしようか、こうしようかと呟いていたけれど、その度に私なりの折衝案を出したりしてみる。
彼がこんなに饒舌になるのは珍しく、それがこそばゆい感情となって駆け巡るのも嬉しかった。
あれやこれやと話した結果、私が外を出歩きたいときはアランの付き添いがあれば無条件、そうでないときは必ず王室世話人の付き添いをつける、ということになった。
「何かあったとき、すぐ対処できなくては困ったことになるからな。そうでなくては生きた気がしない。」
少し心配性になったのも、変化だ。相変わらず表情あまり豊かとはいえないけれど。
「うん。やりすぎぐらい、気をつけるから。ね。」
そう答えて、私は下腹部をさする。今はまだ見て分かるほどの変化はないけれど、その内側では尊い神秘が沸き起こっているのだ。「特別な事情」。それは──私が身篭ったこと。
「早く一緒に中庭で遊べるようにになるといいね。」
「そうだな。楽しみだ。」
ほのかに白いファントムゾーンは、いつの間にか雲間から差してきた日の光のフィルターとなって幻想的な演出を施した。まるで、私達を祝福するかのように。