30. 紋章
無駄のない動線で空に線を引いた切っ先は、僅かな風を起こして鼻先で静止した。俺の射抜くような眼光とは対照的に、刃を向けられた相手は対面した時と代わらぬ穏やかな表情のまままったく動じる事がない。前振りなく二人の間を切り裂いたラインは、黒い前髪数本を犠牲にするに留まった。
「少しは反応しろよ。」
「アランが理由もなく僕を切るわけないしね。随分荒っぽい冗談だ。」
「ふん……相変わらずお人好しだな、アルス。」
護身用に持ち歩いていた剣を殺気と共に鞘に収める。同時に、硬質な音を立てて張り詰めた空気も一緒に仕舞われていった。心の奥底ではこれしきの事では動じないことに確信めいた納得感を感じつつ、実際表に出したのは多少の呆れを含めた視認だった。
「気配を消していきなり人の背後に現れるとは、粋な事をするもんだな。」
「だってラダトーム城下の荒野にルーラで降り立ったらアランが一人でとぼとぼ歩いてるから。」
「とぼとぼ歩いてなんかいねえよ。俺がどこで何をしていようが勝手だろうが。」
「てっきりもうお城を追い出されたのかと思ってさ。はは。」
「……。」
アルスと会うのは、異魔神との戦いの後に世界を回った時以来だ。アルスとは成り行き上途中で別れる事になったが、その後も近況ぐらいは小耳に挟む程度に回ってくる。主にアステアが旅の扉を通じてラダトームとカーメン間を繋いでいて、俺はそのおこぼれに肖っているに過ぎないが。
「お前、何故か知らんがまた一人で放浪してるらしいな。」
「うん、まあ、ね。性分なのかもしれない。」
「目的はあるのか。」
「……うん。アランなら、話してもいいかな。」
「なんだ。」
「捜してるんだ、紋章を。」
「紋章を?」
「あの大戦の最中に異魔神にどこかへ飛ばされてしまって……今はどこにあるのか分からないんだ。」
「俺はあの後、紋章はお前の元に戻ってきていると思っていたんだが。」
「異魔神が滅んだということは、どこかには転送されているはずなんだけどね。時間が掛かっても必ず見つけてみせるよ。」
「……ふむ。確かにあの紋章はただの飾りとは違うからな……。」
「それにしても、僕はアランこそ当て所もなく旅を続けるのかと思っていたけど。ラダトームにいることにしたんだってね。ボルゴイさんに聞いたよ。」
「……情報が早いな。本当にお前、旅してんのか?」
「してるよ。ほら、外套だってそれ相応に年季入ってる。なんだよもう、挨拶ぐらいしておこうかと思って立ち寄ったのに。」
そういって鳥の翼よろしく広げられた外套は、端は擦り切れてほつれた糸が所々覗き、布の面には戦闘や劣化の跡だろう、何ケ所か穴が出来ている。それよりも気になるのは、外套の下の服装だ。簡素な普段着でうろついていた俺と対した違いはない格好だった。
「そんな軽装で長旅してるのか、アルス。鎧はどうした。」
「ん、ああこれ? 鎧はあの戦いでほとんど原形を留めてないんだ……。修復するより、打ち直すと言った方がしっくりくるかもしれない。」
「そうか……。俺のオリジナルはある程度自己修復したようだったがな。」
「僕のレプリカはほとんど人の意匠で作られたものだからね……仕方がないよ。それに、もう十分僕を護ってくれた。今はカーメンの鍛冶屋でずいぶん修復されてきてるけど、しばらくは休ませてあげたい。」
「まったくお前らしいぜ。その分だと、折れた剣も置いてきたんだな。」
「うん、あれは普通の鍛冶技師では修復不可能だしね。ジパングに預けてきたよ。イズナならきっと完璧に直してくれるはずさ。」
今のアルスであれば、新米兵士の装備であったとしても早々太刀打ちできる者はいないであろう。剣については剣王キラの見立てでそれなりのものを帯剣しているようだったが、それでも『目的ある旅』を続ける勇者には不釣り合いな装備であることには変わりない。
アルスはそれで事足りている、と言っているが、擦り切れた外套は無言で着用者に反論しているように思えた。
「おい、アルス。剣と道具袋を外せ。」
「え?」
「外したらそこを動くな。」
俺の突然の要求にしばし目を白黒させていたアルスだったが、早くしろ、と少々強めに催促すると疑問符を浮かべながら言われた通りに倣った。肩幅に足を開いて直立したアルスを確認すると、俺は天に手を掲げて詠唱を始める。詠唱が終わると、だだっ広いラダトームの空の一点に小さく飛来するものが見えた。それらは流星のように真直ぐにこちらへ向かってくると、最初から記録されているかのようにあるべきところへ辿り着く。
「!!」
装着時の衝撃に多少よろめいた流星の目的地──アルスは、自身の体を確認すると己の身に起こったことに驚きを禁じ得ないようである。
「……オリジナルの、ロトの鎧……?! アラン、これは……。」
「今の俺にはしばらく必要なさそうだからな。」
「でも……。」
「余計なことは言うな。」
「剣まで……。」
「お前なら余裕で使いこなせるだろうが。精々なまくらにならないように気をつけるんだな。次に会った時、ひでえ扱いをしてやがったらただじゃ済まないぜ。」
「……分かった。ありがとう。アランもしばらくは休むといいよ。」
「馬鹿言え。」
アルスは案の定、素直に礼を述べた。世襲だのなんだの、鎧を受け継いだ先祖らにもいろいろ事情はあるのだろうが、同じ血を継ぐものに渡ったのだ。文句はあるまい。
「紋章だが、俺の方でも探ってみよう。」
「助かるよ、アラン。地下と地上をいっぺんに捜せば、意外と早く見つかるかも知れないね。」
「……だといいがな。」
「その紋章だけど、無事見つかって手元に戻ってきたら……これは僕達勇者の最初の子孫に託そうと思うんだ。」
「随分と気が早いな。三人ともまだ齢二十にもなっていないんだぜ?」
「何年後になるかも分からないしね。」
「賭けてみるか? 俺とお前、どっちが倍率が高いんだよ?」
「あはは、勇者が子孫で賭け事なんてしたらいい笑い草になっちゃうよ。」
珍しく、俺は皮肉の感情なしに口の端を持ち上げる。
遠くから不意に、アステアが呼ぶ声が聞こえた。城の方角から聞こえる声は瞬時にアルスの姿に気がつくと、一目散に駆け寄ってくる様子だ。アルスは翻る長いスカートに少し驚いて、大きく手を振ってそれに応えた。
──どこかに隠れているロトの紋章が、微かに共鳴する音が聞こえた気がした。